高校2年生の時だったか。高校の文化祭で僕と友人数人とで原子力発電所反対啓蒙運動
をしたのである。折しもチェルノブイリの事故から2年経ち、愛読していた雑誌「宝島」
では原発反対ライターの広瀬隆の特集ページが組まれ、そしてとどめはRCサクセション
の「COVERS」で清志郎が原発なんていらねーなんていうものだから、もうこれは原発
の恐ろしさをみんなに広めなくては!なんていう使命感にかられて文化祭実行委員会に
直訴して教室を一室あててもらったのである。そして活動ユニット名を「反核討論会」
と名付け自分たちが知りうる原子力の恐ろしさをしらせようとボードを作ったり、そこ
でディベートを開いたりもした。普段仲のいい仲間でもこと原子力となるとよくわから
ないとか、全く興味ないとか、大賛成とか、いろいろな意見が各人からそのディベート
から出てきたのであった。でも学校全体の出し物のなかでは圧倒的に不人気な催しだっ
たかな。でも友人がアコースティクギターを持ち込んでゲリラライブやったり(許可
以外の場所での音楽活動は禁止さされていた)とか普段話したことの無い先輩や後輩
も来てくれたりとやっている本人たちはそれなりに楽しかったのである。
まあ内容が内容なのとアナーキー気取りでやっていたので先生たちからは冷ややかな
目だったのも確かだった。でも文化祭の終了の集会のとき校長先生から「特別賞」を
もらちゃったのである。理由は今無関心なこの時代で問題提起をできる生徒が我が校
にいたことに感銘を受けたと話していました。好き勝手にやっていた僕らも思わず苦
笑。でもうれしかったな、認められた気がした。
でも格好付けでやっているとは思われたくなかったので市民レベルの反対集会や、シンポ
ジュームへその後も顔を出して、そこで知り合った市会議員の活動も手伝ったりもした。
同世代で同じような関心を持っている人たちとも出会った。
でも日本は不自由な国だとも思った。やはり脅迫めいたものも届いたこともあったし。
RCのアルバムは発売禁止になったりもしたし。
日本はその後も原子力発電所は安全と言う名の下で稼働をしつづけたのである。
僕自身もそう言う活動からは自ら参加しなくなっていった。
ここに来て目を覆うばかりの大事故。そして自分たちの将来を見つめるいい機会だ。
原子力に頼る生活をここで転換してみようじゃないか。
日本人ならできるはず。
この曲を文化祭のセレモニーで歌ったら、全校生徒どっちちらけでした。トラウマ。
2011年3月23日水曜日
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私も、たぶん同じ宝島よんでた、色々勉強して、興味の無い人に原発を語るただの迷惑な人になってたな(笑)いま、いろんな人が、自分にしかできない事って?何?って思ってるよね。募金でも物資の提供でも、節電でも皆がやってても、個人がうごいて行動にうつしたら、それは立派なその人にしかできない事。特別な事なんていらない、自分にしかできない事をみんなで一緒にやろう〜!
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